こんにちは!
kakko-warai.comへのご来訪、ありがとうございますm(_ _)m
あなたの「かかりつけのウェブ屋さん」谷口裕紀(@taaaanyan1208)です。
改めまして、よろしくお願いします!
谷口 裕紀の概要
- 谷口 裕紀(タニグチ ヒロキ) 通称は「た~にゃん」
- 「カッコワライ」代表。
- 個人事業主と中小企業専門の「かかりつけのウェブ屋さん」
- 会社員、合同会社代表社員、NPO法人代表理事もしている、「パラレルワーカー」
- 岐阜県多治見市生まれ、愛知県春日井市育ち、東京都板橋区在住。
- 射手座(13星座ではへびつかい座)のO型。
あえて言おう「このページはカナリ長い!」と。
このページはざっと
こんな構成になっております。
自分で言うのもなんですが、なかなかの「大作」です。
実はこれだけのボリュームになったのには理由があります。
それは、僕のことを知ってもらいたいから。
と言っても、別に自己主張がしたいわけではないんです。
よく分からないものって、ちょっと怖い
↑にも少し書きましたが、僕は今「かかりつけのウェブ屋さん」というお仕事をしています。
もともと僕の事を知っている方は、僕の「ひととなり」をなんとなく分かってくれていると思いますが、このサイトで初めて僕を知った方は、もしお僕にお仕事を依頼したいと思って頂いても、
「具体的にどういうお仕事なの?」
とか
「そもそも、お前何者や?」
って不安になると思うんです。
そこでこのページは、僕のことを知っていただくことで、このサイトをより楽しく観て頂けたり、安心してお仕事の依頼をして頂けるようになれば、という気持ちで書いています。
それでは、しばし僕のストーリーにお付き合いください!
「かかりつけのウェブ屋さん」って?
具体的には、個人事業主の方と中小企業の方向けに、
- ウェブサイトの制作を中心とした「ウェブツールの構築」
- ウェブマスター業務など、「構築したウェブツールの維持・管理・改善」
- ウェブマーケティングやウェブ集客といった、「ウェブツールを活用した施策の実施」
といったサービスをご提供することで、お客様の事業のお手伝いをするのが僕の主なお仕事です。
お客様にとって、
「ウェブ関係の分からないことや不具合は、とりあえず谷口に聞いておけ」
という存在(=「かかりつけ」)でありたいという想いでお仕事に取り組んでいます。
僕が「ウェブ屋さん」になるまで
僕は1985年12月8日、谷口家の長男として生まれました。
名前の意味は「特に無い」とのことですが、両親が姓名判断の本を「熟読」しながら付けてくれたらしいです。
初対面の人には「ゆうき」と読み間違えられることが多くて、クラス替えの度に担任の先生の読み間違いを訂正するのが学生の頃の風物詩でしたw
目立ちたがりで理屈っぽい好奇心の塊
小さな頃からず~っと変わらない僕の性格を表したのが↑の一言。
- 目立ちたがり・・・人前に立つのとか全然平気。呼ばれもしないのに自分から出ていきますw
- 理屈っぽい・・・とにかく何でも理屈で分かりたいし説明したい。「感覚」とか「なんとなく」なんて納得できん!
- 好奇心の塊・・・興味を持ったが最後、ず~っと見てたい、知りたい、理解したい!でも案外あっさり次のものに興味が向くw
この性格が功を奏した(?)のか、とにかく色々なもの(特に新しいもの)に興味を持ち、物怖じすることなく行動し、そしてその理屈を自分なりに咀嚼して「知識」という形で自分に取り込んできました。
その結果、小学校高学年の頃には家族や友人から「雑学王」と呼ばれるようになっていました。
メディアリテラシーとの出会い
僕が進学した高校には、大学のゼミのように受けたいものを生徒が選ぶというスタイルの授業が週に1コマ設定されていました。
高校2年生の時に、僕は国語の先生が担当した授業を専攻し、その中で「メディアリテラシー」について学ぶことになります。
当時、インターネットはまだまだ下火で、メディア業界の中心はテレビ。
この授業では、夕方のニュース番組で放送するための企画ニュースを自分達で制作することで、日頃自分が取り込んでいる情報がどんな形で届くのか、その際にメディアの意図がどんな風に加えられるのかといった事を学びました。
思い返せば、この経験が「物事を発信する」ということに興味を持ったキッカケでした。
ちなみに、このメディアリテラシーの授業はその当時では先進的な事例だったようで、本に紹介され、その中で僕の事がほんの少し触れられています。
大学入学!からの即方向転換
2004年、僕は香川県の大学に進学しました。
学部は法学部。
もともとは理系学部に進学したかったのですが、数学と物理が大の苦手で得意科目は社会と国語という、誰がどう見ても文系脳。
そこで高校2年の時に文転し「社会が好きだから、その延長っぽい学部に行こう」ということで法学部を目指しました。
しかし、この考えがあまりにも甘かったことが、入学直後に発覚します。
今考えれば当たり前の話ですが、法学と高校までの社会科はまるで別物。
僕は初めての専門授業で「法学って、ひとっつもおもんねぇ!」と音をあげました。
その後は大学生活を「就職までの猶予期間」と位置づけ、卒業に必要な単位を取得しつつ、バイトとやりたいことに時間をつぎ込むことに決めたのです。
初めてのウェブ制作とSNSの登場
大学進学当初から新聞奨学生制度を利用していたので、バイトは探さなくても毎日の新聞配達がありました。
毎日深夜2時に起き、2時半~6時半まで新聞の仕分けと配達。
雨が降った時や冬の寒さはそれなりにシンドかったですが、バイクで街を走りながら黙々とポストに新聞を入れていく作業が僕は嫌いではありませんでした。
学校から帰った夕方以降の時間で僕が手を出したのはウェブ制作。
とあるソフトを使って簡単なウェブサイトを作った程度なので、正直「制作」と言うのもおこがましいくらいですが、世界中からアクセス出来る自分の城が出来たような気分になり、それがとても嬉しかったのを覚えています。
その後は当時ハシリだったブログを約2年半毎日更新したり、友人とネットラジオ番組を作ってストリーミング配信したりと、とにかくウェブに触れる毎日を送っていました。
そして、そんな生活を始めた矢先、僕は「mixi」というサービスに出会います。
あれは本当に驚きでした。
いとも簡単に自分のスペースをウェブ上に作ったり、オープンにもクローズドにも共有出来たり、コミュニティが生まれたり…
「ネットって凄いな」
改めてそう思うと同時に、
「インターネットに関わる仕事に就くのって、面白いかも」
という気持ちが芽生え始めました。
「史上空前の売り手市場」と言われた就活戦線
新聞配達と学校とウェブに触れる毎日を送り、迎えた大学3年の秋、ついに僕の就職活動が始まりました。
目指した就職先は広告代理店とマスメディア。
どちらも「物事を発信する」&「インターネットに関わる」仕事です。
当時僕の通っていた大学の法学部では、就職先が市役所や県庁(公務員)か地元の銀行や信用金庫、生保・損保会社、証券会社といった金融系企業というパターンがほとんどで、僕は珍しいタイプだったようです。
僕が就活をしていた2006~2007年はリーマンショック直前の好況期で、就活戦線は「史上空前の売り手市場」と言われるほど企業の採用意欲が旺盛でした。
しかし、そんな状況下でも広告代理店とマスメディアは人気業種でハードルは高め。
同級生が3年生のうちに次々と内々定を勝ち取るなか、僕は4月中旬まで内々定を貰えず、相当な焦りを感じていました。
(僕が就活をしていた頃は、4年生のゴールデンウェークまでに内々定が1つもないとヤバイと言われていたんです。)
しかし、最終的には2社から内定を頂き、無事に某鉄道会社グループの広告代理店に就職することが決まったんです。
仕事として触れたウェブの世界
2008年に広告代理店に入社した僕は、地元の名古屋で社会人生活をスタートしました。
配属されたのは営業部門。
担当クライアントが親会社だったため、「飛び込み営業」のような新規開拓をすることは無く、決まったお客さんのところに通う「御用聞き」スタイルの営業でした。
受注する案件は印刷物やノベルティの制作、イベントの企画・運営などが中心。
名古屋駅の中央コンコースに、自分が担当したキャンペーンのポスターがズラーっと並んだ時のことは、今でも鮮明に覚えています。
2011年の夏には東京に異動。
担当企業が変わらなかった(変わったのは担当部署だけ)ので、仕事の内容も大差は無いと思っていたのですが、蓋を開けてビックリ。
東京での仕事の主役は印刷物でもイベントでもなく、ウェブだったんです。
クライアント企業のサイトに掲載するコンテンツの制作や、そこへの誘導を図るウェブ広告の出稿、それぞれの施策の数値による解析…
KPI、PV、CV、CTR、CVRといった専門用語が飛び交う毎日に、脳みそは沸騰寸前。
前任の先輩に連絡をして確認を取る日々が続きました。
「このままじゃ仕事にならねぇぞ、俺!」
そんな状況を打破するために、僕はこのタイミングで初めてウェブについての勉強を始めました。
最初は理解できなかったことも、ひとつずつ仕組みを理解すればそこまで難しいことではなく、異動1ヶ月後には前任者への連絡もパッタリと無くなり、自分一人でも一通りの対応が出来るようになっていました。
今僕が「ウェブ屋さん」としてお仕事を出来るのは、20台後半に差し掛かったこのタイミングで仕事としてウェブに携われたことが一番の理由かもしれません。
営業マンという仕事が教えてくれた「働く」という言葉の意味
2008年から務めたこの会社には、5年ちょっとお世話になりました。
大変なこともあったけど、仕事は楽しかったし、良い会社だったなぁと今でも思います。
何より恵まれていたのは、環境がブラックでなかったことと、良い人ばっかりだったってことです。
誕生日を祝って貰ったり、
異動や退職の時には餞別も。
あの会社で社会人生活をスタート出来たことは、本当に幸運だったと思います。
そして、僕がもう1つ幸運だったと感じでいるのは、最初のキャリアとして営業という職種を経験できたことです。
営業という職種の一番の醍醐味は、「案件の開始(受注)から完了(納品・請求)までの全てに関われること」だと僕は考えています。
お客さんに求められている価値を把握し、その価値をスタッフと協力して具現化して提供する。
そして、提供した価値がどの程度の効果をもたらしたのかを検証し、最終的には適正な対価を頂く。
仕事というのは、そういう一連の流れで成り立っていることを、僕はこの5年間で学びました。
そして、この「仕事」という一連の流れを通じて、お客さんに「満足」される、もしくは「感謝」されることが「働く」ということなんだと知りました。
退職、そして経験したドン底
2013年7月、僕は約5年務めた会社を退職しました。
周囲に退職の件を話した時には、本当に驚かれましたが、この決断に一番驚いていたのは僕自身かもしれません。
それくらい僕にとっては居心地の良い会社でしたから。
でも、当時27歳だった僕は考えてしまったんです。
「このままで良いのかな?」
って。
これくらいの時期にはよくあることではないでしょうか?
ご多分に漏れず、僕はそのパターンに陥りました。
そこで立ち止まって考えるくらいの頭があればよかったのですが、それまでの人生を勢いと運だけで生きてきた僕は、何の計画も無いままに辞表を提出してしまったんです。
(あの頃の自分に会えるなら、僕は間違いなく辞表を破り捨てますw)
そしてここから、僕は自分がいかに会社という組織に守られていたのかを嫌というほど知ることになりました。
税金、年金、保険、家賃に食費に交通費。
収入は無くなっても、生きている限り支出は無くなりません。
多少の貯金があったものの、お金はとんでもないスピードで減っていき、僕は自分で何も生み出せないままお金は底を突きました。
終いには、当時付き合っていた彼女にお金を借りることにも…
(この彼女が、今の僕の奥さんです。)
「会社という看板が無くなると、今日一日を生きるというのはこんなに難しい事なのか。」
僕は人生最大の挫折を味わいました。
そして、そんな状況下で僕が考えられる選択肢は、「再び会社という組織の傘に守られる立場になる」ということしかありませんでした。
立ち位置の違いで見えたもの
2014年の9月、僕は再びサラリーマンになりました。
入社したのはシェアハウスの運営会社で、配属先はマーケティング部門。
業界ではトップの会社でしたが、僕が入社した時の社員数は約80名と決して大所帯とはいえず、僕が配属されたマーケティング部門にいたっては部門長以下4名という小さな組織でした。
しかし、ここでの仕事は僕に新しい刺激を与えてくれました。
最初に携わった仕事は、「自社サイトのリニューアル」。
前職でお客さんのサイトに関する仕事は何度も経験しましたが、自社サイトを扱うのは初めて。
クライアント側の立ち位置を経験することで、代理店時代には考えなかった事を考えたり、気づかなかったことに気付いたり。
一つの仕事に対して多角的な目を持つことの重要性を知る経験になりました。
制作という仕事への第一歩
サイトリニューアルの仕事を進める中で、ある日上司からこんな質問を受けました。
「谷口くんって、記事のライティングとか出来る?」
この時僕は「はい、もちろんです。」と答えることは出来ませんでした。
「物事を発信する」仕事に携わってきたし、大学時代に毎日ブログを書いていた経験もあるから、文章を書くことも得意な方だとは思う。
でも、それを仕事としてやった経験は一度も無い…
僕はその事を正直に伝えました。
「じゃあ、試しに1つ記事を書いてみてよ。」
これが、僕の制作者への第一歩でした。
与えられたお題について調べ、取材し、そして記事を書き上げる。
「そうか、創り出す、生み出すというのはこういうことなのか。」
そうして僕が書き上げた記事は、上司から一定の評価を得て、サイト内で公開されることになりました。
ブラウザ上に、自分が書いた記事が表示されているのを眺めながら、なんだかちょっと不思議で、でもとても充実した気分になったのを覚えています。
「そうか、これが制作者の感じる達成感なんだな。」
数ヶ月後、僕は社内人事で営業部門へ異動することになるのですが、それまでの期間、サイト内の記事やメールマガジンのライティングを任されることになりました。
こうして自分の仕事に「制作」という領域を加えることが出来たんです。
自分の意思で踏み出した二歩目、三歩目
ライティングで制作という仕事への第一歩を踏み出した僕。
これまでなら、そこで一度満足して、その先に進むまで少し「間(ま)」を取っていたのですが、30歳という年齢的な節目を目前に控えていた僕は、すぐに次への歩を進めました。
「ライティングだけでは物足らない。記事やメルマガだけでなく、もっと幅広く制作が出来るようなスキルを身に付けたい。」
そこで僕が取り組んだのが、デザインとWordPressという仕組みを使ったウェブ制作の習得。
プロのウェブデザイナーが開講したスクールに週2日通い、久しぶりに本気で勉強しました。
簡単な画像の加工から始まり、自分で描くスキルの習得、ウェブサイトの要素と構造の理解、そしていよいよウェブサイトの制作!
覚えることはたくさんあったし、スクールは仕事の後からなので、時には睡魔に襲われることも…
それでも自発的に始めた勉強は楽しくて、出来ることが増えるのが嬉しくて、卒業までの約10ヶ月は本当にあっという間でした。
そして、スクールに通い始めて7ヶ月の頃には、全てを自分だけで作ったウェブサイト(ブログ)を開設。
(そのサイトがこちらです。)
こうして僕は遂に、一通りの制作が出来る「ウェブ屋さん」としての自分に辿り着いたんです。
3年前の自分を超えろ!
2016年2月、僕は勤めていたシェアハウス運営会社を退職することを決めました。
二度目の退職という決断は、初めての時よりも勇気が要ったなぁと思います。
「もし、また3年前と同じ轍を踏んでしまったら…」
そんな考えが何度も脳裏を過りましたから。
ただ、一方で
「あの経験があったからこそ、もう二度と同じ轍を踏むことはない。」
と強く確信できたのも事実です。
「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
どんな相手かは嫌というほど知っている。
勢いだけだった20代の頃より自分の事も分かっているし、何よりあの時にはなかった経験値とスキルが、今の自分にはある!
今こそ、3年前の自分を超える時。
こうして4月末、約1年半お世話になった会社を退職し、「カッコワライ」という屋号でお仕事をスタートさせたのです。
前を見て走れることの喜び
ありがたいことに、僕は個人事業主として開業した最初の月からお仕事を頂くことができました。
初めてのお客様は、つい先日まで勤めていたシェアハウス運営会社。
実は、退職の意思を上司に伝えた時、
「入社した時から担当してくれている仕事を、委託っていう形で今後もお願いできないかな?谷口くんの仕事に対する姿勢は信頼してるから、任せたいんだよね。」
という、涙が出るような言葉を頂き、お引き受けすることになったんです。
会社という看板も、実績も無い個人の僕に、「信頼」を根拠としてお仕事を頂けたことは、本当にただただ感謝しかありませんでした。
その後も、個人でシェアハウスを開業した方とのご縁を頂いてウェブサイトを作らせていただいたり、ウェブサイトの拡大やメンテナンスで継続的にお仕事をさせて頂いたり、少しずつ実績といえる物が出来てきました。
「まだまだこれから」というのは百も承知ですが、それでも3年前には味わえなかった喜びを感じられて、本当に幸せです。
これからも日々努力を続け、過去最高の充実感を更新し続けていければと思います。
あなたも、わたしも、最高の「笑」顔に
ここまで僕の長いストーリーにお付き合い頂き、本当に有難うございました。
冒頭で「カナリ長い」と予告はしましたが、まさかここまで長くなるとは僕も思っておらず、何度かこのページを作り始めたことを後悔しましたw
でも、こうして自分の仕事に関するルーツを辿ったことで、決意を新たにまた頑張っていこうと思えました。
最後に少しだけ、僕の想いを綴って、このページを締めくくろうと思います。
「カッコワライ」という屋号に込めた想い
どうですかこの屋号?
一回聞いたら絶対に忘れないでしょ?
ちょっと変わった屋号ですが、ちゃんとした想いを込めた名前なんです。
僕が初めての仕事を辞める少し前、僕はとある出来事をキッカケに「自分が生きる上で大切にしていることは一体なんだろう?」と考えるようになりました。
そしてある時、自分の奥底から、答えとしてたった一文字の漢字が浮かび上がったんです。
その一文字が「笑」。
僕自身がいつも笑顔でいられたら、良いなぁ。
僕の周りの人も笑顔でいられたら、もっと良いなぁ
僕が知らないような、遠く離れたところにいる人達も笑顔でいられたら、もっともっと良いなぁ。
人間だけじゃなくて、動物や植物や、ありとあらゆる存在が笑顔でいられたら、でら(名古屋弁で「とても」)良いなぁ。
そして、地球全体が笑顔でいられたら、最高に良いなぁ。
そんな想いが生まれたんです。
だから僕は、仕事を通じて、お客さんに笑顔になって頂きたい。
そして、僕自身も笑顔で仕事をしていたい。
お客さんと自分の間に「笑」を創り出す。
そんな想いで、一つひとつの仕事に向き合っています。
ミッション
仕事を通じて、お客さんに「満足」もしくは「感謝」され、最高の笑顔になって頂く。
ビジョン
笑顔が笑顔を呼び、笑顔が世界中に拡がっていく
おわりに
人生のドン底にいた時、僕は心から笑うことが出来なくなりました。
そして、心から笑えるということが、どんなに幸せな事なのかを知りました。
だからこそ、僕は今、こうして仕事を通して笑顔でいられること、お客さんに笑顔になって頂けることが、何よりも嬉しい。
一人でも多くのお客さんの笑顔のために、僕は全身全霊を掛けて仕事に取り組みます。
それが、このページを最後まで読んでくれたあなたへの、僕の約束です。
あなたと最高の笑顔で笑い合えるのを、楽しみにしています。
かかりつけのウェブ屋さん
カッコワライ 代表
谷口 裕紀